【特別史跡旧閑谷学校】へ行ってきた話

せっかく備前市まで来たので(田倉牛神社へ行ったお話)そこからほど近い「

旧閑谷学校」へ行ってきました。

前々から名前はよく聞くんですが何にも知らずに行ったので

入口に着いてもとりあえず何の感慨もなかったです。。。

 

まず

こちらで拝観料400円を支払い

少し資料を眺めて

歩いてみます。

う~ん、よく分かりません。。。なかなか古く立派な建物だなあ、くらいの感想です。

この左の小道を歩いていくと資料館があると入口で教えてくれていたので、行ってみます。

木造の建物がありました。

ベビーカーだったんですが、建物が古くバリアフリーなどもちろんないので子供を抱っこしていたらスタッフの方が「大丈夫ですか?なにかお困りでしたら言ってください」と声をかけてくれました。が、僕らもまだ若いので「ありがとうございます、大丈夫です」と強がりました。そしてここで靴を脱いで、

資料館へ、、、

 

 

 

 

 

中は、著作権やらなんやらの関係で撮影禁止と書いてあり、写真はありませんが閑谷学校の歴史がたくさんありました。

どうやら1666年10月、池田光政津田永忠の案内で閑谷を訪問し、この地に庶民教育の学校を設置することを決め、続1670年(寛文10年)、池田光政は津田永忠に閑谷学校の建設を命じた。

津田は閑谷に転居し建設が始まる。1674年までの4年間に、学房・飲室・講堂・聖堂などが完成したが、当時は茅葺きの質素な建物であった

その後、1682年(天和2年)、池田光政が亡くなり、光政は遺言で学校を永続保つように津田に伝えていた。

津田永忠は、聖堂と講堂の改築、芳烈祠の建立、石塀と門の設置などの再整備を行い、この作業は1702年まで続いた。

建物の屋根はこのときに耐久性の高い備前焼瓦で葺かれた。椿山(御納所)もこのときに築かれた

芳烈祠は現在の閑谷神社で、池田光政を祀ったものである。椿山墓所には光政の爪と髪の毛が埋められたとされる

1700年(元禄13年)、当時の岡山藩主池田綱政が学校周辺の田畑を学校田とする。これによって田畑を奪われた農民は、岡山市の「幸島新田」に入植した。1704年には光政像が建立された。

 

など、ウィキペディアさんにいろいろ書いてあるようなことが実際の光政の書物や授業風景やら卒業生やらの資料があったんですが、難しかったです…

 

そして、資料館の最後の部屋に「冷房中」と書かれた休憩室も兼ねた部屋があり、この日とても暑かったし、子供も飽きて来てたので入ってみました。

するとそこで、「美の巨人たち」

で閑谷学校が取り上げられていたDVDが流れていて、休憩がてら見ていたら、、、

 

「感動!」

 

えーー、閑谷学校って超すごいじゃんって嫁と盛り上がり、再度見に戻ります。

 

 

すると、なんてことでしょう

 

歩いてみます。

先ほどと同じものでも全く違って見えるじゃありませんか!(笑)

 

まず、

この瓦の凄さ!すべて備前焼で造られていて、

この説明にも納得の凄さ(笑)

まずこの屋根構造すこし変わっていて、計算されていたのかどうか番組では閑谷学校の奇跡と紹介されていましたが、通常平瓦の下に土を入れて瓦を固定するため、その土が劣化しチリや埃になったりするのですが流し板という板で固定することによって

なんと床が常にキレイでいられるそうです。スタッフの方が番組で語られていましたが掃除は週に1回くらでもこれくらい床が光っているそうです。

そして、もう一つの奇跡が上の写真で見えている丸い柱なんですが、全部で10本あるそうなんですが、通常丸太は1本の木で作るところ、この柱10本は2.5本でから作られているそうです。

 

「ん?」

 

ですよね?番組の説明では木は切った瞬間から中心を軸にねじれを起こし始めるのだそうです、そこで閑谷学校のこの柱は1本の太い柱から芯をはずして4本の柱をとり、そうすることによって300年ものあいだ全く歪むことなく未だに建物が水平を保ち続けているそうです。

 

あと、この長く続く石塀ですが草がいっさい生えてません。これも津田秀忠の緻密な設計のもと作られた素晴らしい建築技術なのです。美しい婉曲の長い塀は圧巻です。

 

同じ感動をつたえたくてYouTubeで美の巨人たちで探してみたんですが無かったです。。。残念。

これ見たら生のこの建築物を見たいと必ず思えると思うのになあ、、、

 

そしてこの津田秀忠のもう一つの有名なものが日本三大名園の「後楽園」

ぜひ次回は後楽園にも行ってみます。行ったことあるけど(笑)